株式会社だいや

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だいやのブログ

2015年7月1日
キャッスレスワールド

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 いつものようにナノ認証で玄関を開けて自宅の部屋へ戻った弘を、壁掛けパネルが迎えた。

 「おかえりなさい弘さん。本日は月次決算日です。各ページの表示をご確認のうえ、よろしければ承認してください。」

 やわらかい女性の声が告げる。

 声に導かれるままに、弘はまず「光熱費」の箇所をタッチする。電気代30520円、ガス代19325円、水道代12265円、合計62110円との表示を確認し承認する。画面の所定の場所を軽くタッチするだけで承認は完了する。つづいて「納税関連」をタッチすると、所得税、住民税、厚生年金料、健康保険料、ぞれぞれの金額が表示されている。とりあえず承認する。

 この月次決済の承認作業は、本人に支出の確認をさせる以上の意味はないらしい。というのも、弘は出来心から過去に一度だけ承認せずにずっと放置しておいたことがあるのだが、承認せずとも各種料金は支払い日に自動的に清算されていたからだ。放置したところで、帰宅するたびにモニターに承認するよう促されるのが煩わしいだけなのだった。

 次に「サービス確認」の箇所をタッチすると、いつものように細かい購入履歴が表示される。日付順だから今月も全部で30ページあるらしい。これらをいちいち確認していくのは骨が折れる。例えば6月1日のページには、弘に付与されている12桁のパーソナルナンバーとともに、その日の出費の記録が羅列されている。

<月次決算2065年6月分/6月1日/パーソナルナンバー 524991179325>

1.スターコーヒー 数量1 ¥315(7:18/野田駅前自販機No.248767)

2.地下鉄乗車代金 ¥380(7:32/玉川駅乗車、7:40/阿波座駅下車)

3.フジ黒糖パン 数量1 ¥230(7:45/セブンイレブン阿波座駅前店/コンビニNo.43118)

4.カゴメ野菜ジュース 数量1 ¥205(7:45/セブンイレブン阿波座駅前店/コンビニNo.43118)

5.セブンスターEX  数量1 ¥1225(7:45/セブンイレブン阿波座駅前店/コンビニNo.43118)

6.塩ラーメン 数量1 ¥1100円(12:48/モリモリラーメン/飲食店No.8755983)

7.キムチ 数量50g ¥150円(12:51/モリモリラーメン/飲食店No.8755983)

8.地下鉄乗車代金 ¥380(18:57/玉川駅乗車、19:08/阿波座駅下車)

8.マグロ切り身 数量100グラム ¥780(19:25/スーパー岡野/生鮮食料品取扱店No.521130)

9.スーパードライ 数量1 ¥560(19:25/スーパー岡野/生鮮食料品取扱店No.521130)

10.お徳用洗剤ネオ 数量2 ¥1260(19:25/スーパー岡野/生鮮食料品取扱店No.521130)

合計金額 6585円 

 と、こんな具合だ。その精度は恐ろしいほどに正確だった。

 会社の同僚の井上などは几帳面な性格なのでいちいち目を通すらしいが、弘は次々とページを進めて承認作業を済ませてしまう。

...

 弘がナノ認証を体に刻まれたのは生後間もなくの時だった。弘の世代は生まれて以来、どこで買い物をしようと、どんな乗り物に乗ろうと、見た目はすべてフリーパスになった。ただし、パーソナルナンバーの銀行口座に支払いに耐えうる残高があるという前提での話だ。

 当たり前のように、成人するまでは父親の銀行口座、成人してからは自分の銀行口座からの自動引き落としですべての決済を済ませてきた弘は、今までに経験した2回の海外旅行を除けば現金を触ったことがなかった。

 コンビニであろうと家電量販店であろうと、欲しいものをカバンや袋に入れて店の出口に設置されているナノ認証ゲートを出るだけ。カバンや袋に入れたすべての商品は、一つとしてもれることなくナノ認証装置によって読み取られており、購入者の月次決算に正確に計上された。もっとも高額な商品を購入し分割払いを希望する場合のみ、カウンターでの手続きが必要だったが。

 弘はこれまでに何度か店舗の出口でゲートが閉まり、店員に止められている買い物客を見たことがあるが、そういう客の口座には残高が不足しているらしかった。そうやって止められた客は、店員にカウンターに案内されることになっているが、みな一様に恥ずかしそうにうつむいて歩いていた。

 飲食店に入っても、オーダー時のオペレーションが客個人のナノ認証と連動しているから現金で支払いをする必要がなくなった。要するに店舗という店舗からカードリーダーもレジも消えたのである。万一、客の口座の残高よりも高い金額のオーダーがあった場合でも、それはすぐに店員が持っている端末に「残金不足」と表示されるため、店は取っぱぐれることがなかった。

 2035年に政府の肝いりで、全国民に適用されたナノ人工物メトリクスを応用した個体認証システム(ナノ認証システム)がもたらしたのは、完全なるキャッシュレス社会であった。

 今や日本中のすべての店舗から万引きや食い逃げはなくなったし、現金を持ち歩く者がいなくなったために引ったくりや強盗等の犯罪もなくなった。また開設されている口座は、100%確実に個人か企業に紐付けされているため、かなり昔に流行したオレオレ詐欺などの犯罪もおこなえる余地がなくなった。名義貸しされた銀行口座を用いて詐欺行為を働こうと思っても、高額かつイレギュラーな振込み申請については銀行側が自動的に振込み先の信用情報を取得し、少しでも疑義があればストップしてしまった。また銀行が把握した怪しい口座のデータは、即座に他の銀行や警察に共有されたため、使用が不可能になるばかりか、確実に捜査の対象となったのだ。

 他にナノ認証システムの効果として際立ったのは、税金の確実な徴収だった。個々人の収入や支出の記録だけではなく、企業のそれも完全に透明化されたために、導入前に散見された脱税がほぼ不可能になったのだった。

 その昔に大きな問題となっていた生活保護の不正受給も激減、いや消滅したと言っていい。役人は生活保護受給者の支出記録の中から、不適切なものを見つければそれを「動かぬ証拠」として支給を減らすことができた。特に酒やギャンブル等への支出は厳禁とされたため、そのような不良生活者の不正受給額が減るだけでも大きな効果があった。

...

 弘はタメ息をつく。

 ゲツジ(月次決算の略称)の克明な記録を見ていると、購入履歴だけではなく行動そのものを国に把握されていることがよく分かるからだ。

 弘が生まれるずっと前に制定された「テロ及び犯罪抑止にかかる情報開示法」によって、国家はいつでも個人の了解なしにすべてのデータを閲覧できるようになっていたのだった。もちろん、この法律によって犯罪検挙率は飛躍的に向上したし、それに伴う犯罪発生率の減少にも目を見張るものがあった。

 データを細かく分析するまでもなく、時系列に並べ替えた個人情報を見れば、個人が何時何分何秒にどの通りを歩いていたかが分かった。特定の時間帯を他者のデータと同期させれば、誰といっしょにいたかまで追跡できるようになったからだ。これらを可能にしたのは、いまや日本全国のいたる所に設置されたナノ認証システムなのだった。街の全面に施された顔認証機能付きの監視カメラの映像とナノ認証システムのデータを組み合わせれば、すぐに個人を特定することができた。

 弘は再び大きなため息をつく。

 ゲツジを自分だけが確認するのであればまだいい。しかし、ついこのあいだも訪ねてきた母親に「今月のゲツジ見せてね」と言われ、インスタントの食べすぎだとか、へーこんな映画見るんだ、あーでもないこーでもないなどと、口うるさく指摘されたばかりだ。

 弘は今30歳であるが、これまで親に隠れた買い物や消費をしたことがない。というか、すべて見られてしまうからできないのだ。「後ろめたいことがないのならゲツジは見せて当然」という社会風潮によって、個人の密かな消費は激減していた。昔は家族に知られずに個人消費ができたという話を誰かから聞いた時、弘はその時代に生きた人のことを羨ましがった。

 ナノ認証システムの実施以降に売上が激減した業界はたくさんある。既に承知のとおり、ギャンブルや風俗業界が壊滅的な打撃を受けたことは言うまでもないが、最近では意外な業界にも余波は及んでいる。

 その一つが仕事帰りのサラリーマンでにぎわっていた居酒屋だ。「少ない小遣いをどう使おうが俺の勝手だろう!」と言いたいサラリーマン諸氏であったが、妻からゲツジの際にその支出について、ネチネチと言われることに耐えられなくなった者が少なからずいるのだろう。女性がますます強くなる昨今、このようなサラリーマン層を主要顧客としていたような飲み屋は徐々に減少しているらしい。

 ナノ認証システムの導入後しばらくの間は、東京の歌舞伎町や大阪のミナミではアンダーグラウンドの飲み屋や公営ギャンブルのノミ屋、風俗店などが細々と営業を続けていた。これらのアンダーグラウンドの店舗に共通するのは、客が持ち込んだ商品をサービスに交換するというシステムだ。

 例えばこんな具合だ。ミナミのある飲み屋ではブランド物の腕時計が約20000円分の利用券に化けた。客はその利用券で妻にばれずに飲み食いができたのである。公営ギャンブルのノミ屋では客が持ち込んだ物品をコインに交換してベットを受け付けていた。

 このようにして儲けたアンダーグラウンドの店舗は、客から受け取った品物を海外で転売し、海外の通貨を日本円に戻すことで利益を得ていた。しかし、このような手法が成立したのはシステムの導入当初だけで、じきに国家によってすべての銀行口座の中身が監視されるようになってからは、海外での不正入金もすべてチェックされるようになってしまったのだった。

 客が持ち込んだ品物を現金化することがを難しくなったアンダーグラウンドの店舗は、徐々に姿を消していくことになった。

 このようにしてナノ認証システムが行き渡った結果、日本は世界中から新たな称号を得ることとなった。

 「日本は世界で一番安全だけど、世界で一番プライバシーのない国で、世界で一番健全で面白くない国」だ!

 いまやナノ認証システムに違和感やストレスを感じない世代の国民が大多数を占めるようになった。どういうわけか世界に先駆けて画期的な個体認証システムを導入した日本の経済は、ここにきて減速しはじめた。

 一人ひとりの国民の収入や、ありとあらゆる消費行動を把握し、さまざまな不正の余地を根絶したナノ認証システム。そのシステムが浸透した社会では、物事に疑問を抱くことを知らない優等生タイプの国民が大量生産された一方で、物事を破壊し創造する能力を持った国民の割合が圧倒的に減少したのである。今の日本には、かつて技術立国として世界に名を馳せた面影はどこにもなかった。

 そればかりではなく、少子化はますます進行していた。このままのペースで進行すると、2100年の日本の人口は5000万人を割り込むことが明らかになっている。ナノ認証システムで管理され無菌状態で育つ子ども達は、大人になっても、子どもを作るどころか異性に対して興味関心を持たなくなったからだ。

 昨年の国会でも、この若者の無気力と無関心は大きな論争を巻き起こした。政府はあくまでも「暫定的な」という部分を強調しながらも、新法案を成立させたのであった。

...

 帰宅後もう3時間もぶっつづけで、頭部にバーチャルモニターを装着しオンラインゲームをしている弘に向かって、壁掛けパネルから今度はセクシーな女性の声が告げる。

 「弘さん、少し真面目に生活しすぎじゃない? たまにはアンダーグラウンドのお店で遊んでくればいいんじゃない?」

 パネルには、

"ご利用は記憶には残っても記録に残りません!"

 

 というキャッチフレーズとともに、政府公認のアンダーグラウンドの飲み屋、ギャンブル場、風俗店などのリストが示されていた。

しかし弘はパネルに目もくれず、予定調和のゲームに没頭しつづけるのだった。

(了)

(山地 正晋)